広く浅くで大惨事

ジャニーズとお笑いと特撮とプロレスの4ジャンルを兼任していたらこんなことになりました

英語がトラウマだった帰国子女が英語を自分の武器にすると決めた日

 烏丸から河原町へ向かう阪急電車。降車後にスムーズに階段を登れるよう、私は一番前から一番後ろへの車両へと移動していた。

夕暮れ時の車内には私と同じような高校生や、帰宅ラッシュに巻き込まれないようさっさと引き上げた会社員が座っている。阪急電車はお上品な電車と言われがちだが、走行中は実は荒々しい。車両を移動しているだけでもかなり目立つのに、遠心力に負けて他のお客さんのところへ倒れこんだら大変だ。

まるでランウェイのモデルかというくらいに大股で進む私に、ふと、ある疑問が浮かんだ。

「私の武器って何だろう」

 

「帰国子女」と言われるのが嫌だった

私は中学校の3年弱を海外で過ごした。

インターナショナルスクールに通ったため、英語を覚えるということは生きることとイコールになった。何一つ聞き取れない状態から毎日家で必死に勉強し、テストでクラストップになったときには本当に嬉しかった。努力が報れるという経験を持てたということは、自分の人生において財産だと今では思える。

しかし、帰国して日本の学校に戻ってからはこの「帰国子女」という肩書に振り回された。

確かに帰国子女の私が日本で英語の授業を受けているときは、まるでマリオがスターをゲットしているような状態だったし、帰国子女と言うとみんなが食いついてくれるため、知らない人と話すときも自分の過去の経験を話すだけで会話が成立した。帰国子女という肩書きで楽をした場面は少なくない。

けれども「帰国子女なんだから絶対わかるやろ」という期待を先生や他のクラスメイトにかけられていると、知らない単語が出てきても知らないとは言えなかった。

何より嫌だったのは、英語に触れるたびに海外での苦い記憶が蘇ることだった。私が通ったインターナショナルスクールにはどの人種の人間も満遍なく在籍していたが故、人種ごとに友達付き合いのグループができてしまっていた。とはいえ海外なので、日本人グループといっても1学年で10人ほどしかいないのだが、この微妙に狭い日本人コミュニティが中学生という多感な時期と相性最悪だったのだ。

最初の頃は柄の悪い関西人が来たということで仲間外れにされたし、それがなくなったあとは女子のしょうもない派閥争いや意中の男子の取り合いに巻き込まれた。また、補習校では日本人学校の生徒とも折り合いが悪く、日本人学校の女子生徒が「次は誰をいじめる?」と相談しているのを見てしまったときにはゾッとしたものだ。

「この子はあの子のこと嫌っているからあの子のことは話題に出してはいけないな」と常に考えなければならない生活が続いた。かといって白人コミュニティに飛び込もうにも私はお呼びではなかった。

今思い返せば私はPTSDのようなダメージを受けていたのかもしれない。帰国してから英語を聞いたり話したりすると、それがトリガーとなってフラッシュバックが起きていた。

そんな状態で、英語の勉強をしようと思える訳がなかった。

 

「帰国子女」から「中途半端な帰国子女」へ

最初はインターナショナルスクールで培った英語力で難なく学校の授業を受けていた私だったが、あっという間にそうもいかなくなった。

インターナショナルスクールで習った英語の文法の範囲を、高校英語での授業が追い越してしまったのだ。

インターナショナルスクールで行われる非ネイティブ学生用の英語の授業というのは、日本での英語教育と同じようなカリキュラムで行われる。中学3年間をそこで過ごしたということは、裏を返せば中学英語までしか学習していないということを意味していた。

皆さまも経験があるだろうが、英語の授業は高校になると難易度がとたんに跳ね上がる。いくら他の生徒よりリスニングで有利とはいえ、自分の知らない文法が授業に登場し、英語力の貯金が尽きたとわかったときは絶望した。「帰国子女」として難なく英語の授業をこなしていた私は、とたんに「中途半端な帰国子女」になった。

これが他の欧米諸国や帰国子女がたくさんいる学校での話であれば、帰国子女あるいはハーフだからといって語学堪能だという訳ではないという認識でいてくれるだろう。だが一般的な日本の学校において、それは許されるものではなかった。

さて、私が日本で通っていた高校では大学へ内部進学ができた。

高校の成績の良い順に好きな学部を選べるというルールだったのだが、負けず嫌いさが全くない上に数学が苦手でテストよりもレポートの方が得意なタイプだったため、私の成績は中の上止まりだった。

そんな状態だったので、希望する学部に行けるかはかなり怪しいところであった。担任には三者面談で「英語がもう少しできれば良いんですけどね……」と言われる始末である。

母親からは「だから帰国してからも英語ちゃんとやっておけばよかったのに!」と言われたが、トラウマを呼び起こす行為を自ら起こそうという気にはなれなかった。

 

「自分の武器」に気づいた日

希望の学部に行くには英語の成績が足りない。そんな現実を突きつけられてから少し経った私は、阪急電車を移動しているときにふと考えた。

「私の武器って何だろう」

英語だ。海外で身に着けた英語力くらいしか、他人と差を付けられるものはない。

だがそれを使う気にはなれない。

その時ふと、新たな疑問が浮かんだ。

「私の武器って英語以外にあるのだろうか」

なかった。たかが普通の高校生の私には、英語以外に秀でているものなどなかった。

他に武器なんてない。そう気づいたとき、自分の心がストンと落ちたのがはっきりとわかった。

そうだ。そうだった。この私に英語以外の武器なんてものがある訳がなかった。

英語を使えばトラウマが蘇る?そんなものはどうでも良い。他に武器がないのであれば、己の心を供物にしてでもこの武器を磨くしか方法がない。

今思えばかなり危険な思想であるが、当時の私にとっては驚くほど納得のいく結論だった。

 

それから私は自分で英語の塾を探して入会した。社会人向けのコースを受講したため週に1度、学校が終わってから塾の隣の吉野家で牛丼を食べ、7時から8時まで授業を受けてから帰る日々を過ごした。

大人向けなので知らない単語ばかり出てくるし、得意だと思っていたリスニングもまるでできなかった。かろうじて残っていた天狗の鼻はあっという間にへし折られた。日々の学校の宿題に加えて膨大で難解な宿題をこなすことは大変で、最初は丸2日かけて解くのが精一杯だった。

とはいえ、インターナショナルスクールで0からクラストップになれた経験があったので、今回も大丈夫だろうと己を信じることができたし、最初はちっともわからなかった英文やリスニングがすこしずつがわかるようになって嬉しかった。がむしゃらに頑張って成果を手にし、すがすがしい気持ちになるという点においては、案外勉強はスポ根に近しいものがある気がする。

想定はしていたが、代償として嫌な思い出が蘇ったこともあった。幸いにも母が冷静な性格だったのでカウンセリングのように何度も話をして、長い時間をかけて解決した。

そうやって塾通いを続けた結果、高校3年のおわりにはTOEICの点数が500点から800点ほどになった。希望の学部にも余裕で入学することができた。

大学からはアメリカの大学に交換留学に行かせてもらえたし、第一志望の会社に私が入れたのは、自分が「国際系枠」の人間だったからだろう。

私の武器は大いに役立ってくれた。

 

あれからもう随分経つが、結局英語そのものを好きになることはなかった。最近は武器として英語を覚えた私では、語学オタクの人には敵わないと痛感させられる。でも英語がわかるとアクセスできる情報量がはるかに跳ね上がるし、ハリウッド映画の英語の台詞で笑えるのは楽しい。「武器としての英語」を好きになることはできた。

あんなにも「帰国子女」であることをフィーチャーされていたにも関わらず、現在私は英語とは全く関係ない、特殊な知識が必要とされる部署で働いている。先輩方からは有難いことに「勿体ない」とのお言葉を頂戴する。

しかし、当の本人である私はそうだと思っていない。むしろ最初から英語ありきで配属されていたら、しょせんその面しか見られていないのかとがっかりするところであった。

なぜなら、英語を武器にできるのは、英語以外にメインとなる武器がある時だけだからだ。それこそ翻訳業など、真に語学を職業にする人以外にとって、語学は1を100にする素晴らしいものではあるものの、0を1にするものではない。0に100を掛けても0にしかならない。

だから他人にとっては遠回りに見えるかもしれないが、今は職場で専門知識を磨くことに専念している。

もしこの専門知識をしっかりと身に着けて武器と呼べるほどになれたら。そして、そこに英語という武器を掛け合わせられることができたら、自分の力はどれほど跳ね上がるのだろうか。

 あの時、あの阪急電車で自分の武器が英語以外にないことに気づいたから、私は英語を磨く覚悟ができた。私の決断は、己への絶望に近いネガティブな感情から下したものだったけれど、今となってはこの英語という武器がどんな未来を見せてくれるのか、楽しみで仕方ない。